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ごうど・ローズパーク再訪と日吉神社参拝(後編:日吉神社とその周辺)

神仏習合や廃仏毀釈のことを知りたければ、関係する書籍を読むにしくはない。しかし現地を歩くと、本で得た知識を補強する材料があんがい見つかるものだ。それに何より気候のいい時季に散策すること自体が楽しく、精神衛生上も良さそうだと思う。

幸い日吉神社には参拝者用の無料駐車場があった。ごうど・ローズパーク北側の駐車場から100mほどしか離れていなかったが、いちおう移動した。

 

目の前に愛宕神社の祠があった。日吉神社と関係あるのかないのか、神域が広かった時代には接写末社の一つだったのだろうか、などといろいろ想像しつつ、こういうときご挨拶のお参りは必ずすることにしている。

 

日吉神社の灯篭、鳥居、門標。

 

上の写真左側にあった地蔵堂。

中がしっかり覗けて、布製の袈裟をつけたお地蔵さんがいて、賓頭盧〔びんずる〕尊者の像もあって、大日如来、阿弥陀如来、聖観音菩薩と思われる小ぶりな仏像もあって、由緒書きが貼ってあった。

何より線香の香りが濃厚に漂っていて、現在進行形で供養が行われていることが伺われた。

日吉神社の神仏分離の名残りだろうか? ここはここで、時間があるときにしっかり取材したいと思った。取材って何だよ?

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2枚上のスマホ写真右奥に見える、神輿の格納庫。

弊ブログ勝手に恒例、Googleレンズによる文字起こし。改行位置、変更しています。以下同じ。

宇佐の宮神輿 神戸日吉神社蔵
種別 岐阜県重要有形民俗文化財
名称 宇佐の宮神輿(宮町・井田管理)
所在地 神戸町大字神戸(宮町)
指定年月日 昭和三六年六月一九日
解説
 日吉神社祭典行事に担がれ、五番目に渡御する宇佐の宮の神輿である。
 神輿本体の形は普通の四角形である。大きさは、高さが胴の高さ九八㌢、幅九八㌢の正方形で、台脚の高さ二三㌢、担ぎ棒間の幅九五㌢、担ぎ棒の長さ四㍍、笠鉾の高さ七○㌢、笠鉾の裾の幅一・四〇㍍、頂きの桝型の上の鳳凰は高さ三〇㌢、首から尾までの長さ四○㌢、座板の高さ一八㌢、幅一・四〇㌢。四方のあかねの鏡は直径二四㌢のもの四箇。笠鉾に飾ってある金物は葵の紋。胴体の柱の金物はそれぞれ上部に巻雲模様、下部に波の模様を金で彫刻してある。座板の打付金物は波に千鳥の浮彫りで、銀と金鍍金が施してある。鈴は丸型、鈴縄は排縮緬の巻撚り。棒鼻(丁口)の金物は右が竜、左は虎の浮彫金物が嵌入してある。製作年代は貞享四年四月(一六八七年)である。
 現在神輿は、宮町・井田の氏子によって奉昇される。
  神戸町教育委員会
平成九年四月

あとで繰り返し出てくるが、神戸町にはこのような神輿が全部で7基あるそうだ。

 

まつりというと神輿というイメージがあるが、西日本では山車を牽くところの方が多い。有名どころでは京都の祇園祭、岸和田のだんじり祭、岐阜愛知でぱっと思いつく高山まつり、大垣まつり、竹鼻まつり、犬山まつり、名古屋三大まつり(東照宮祭、三之丸天王祭、若宮祭)、有松絞りまつり…みな山車を牽く。

その意味で神輿を担ぐ「日吉新宮例大祭・神戸山王まつり」は異色のような気がした。

神輿を担ぐまつりと山車を牽くまつりの分布を調べた先行研究、ぜってーあるはず。調べてみたいテーマが、また一つできた。

 

参道にあった文化財一覧。

 指定重要文化財 日吉神社
十一面観世音菩薩 二躯 国重文
地蔵菩薩像 一躯 〃
日吉神社三重塔 一基 〃
石造狛犬像 一対 〃
日吉神社本殿 一棟 県重文
日吉神社御與及百八燈明台 七基一対 〃
日吉大宮神像 一躯 町重文
日吉聖真子権現神像 一躯 〃
日吉二宮神像 一躯 〃
日吉八王子神像 一躯 〃
日吉三宮神像 一躯 〃
法宿菩薩像 一躯 〃
白鳥神社本地聖観音菩薩像 一躯 〃
大日如来像 一躯 〃

 指定重要文化財
神鏡 二面 町重文
三面鏡 一組 〃
獅子頭 一面 〃
神剣 一振 〃
当麻曼荼羅 一幅 〃
阿弥陀如来図 一幅 〃
涅槃図 一幅 〃
木鉾 十本 〃
蛇頭 一面 〃
日吉神社八坊址 一箇 〃
本地堂址 一箇 〃

仏像多い! 拝観できないものだろうか? ちゃんと供養されてるかな? (私が心配することではない

 

参道にあった社務所。これまた立派!

「wikipedia:金幣社」というのは岐阜県独自の制度だそうだ。検索していたら、たまたまヒットしたので知った。元岐阜県民なので金幣社という名称は知っていたが、岐阜県ローカルとは知らんかった。

 

車止めから本殿方向を望む。

 

参道左手に見える、ここが日吉公園かな?

 

手水場の向こうに…

 

「日吉神社について」という説明書きがあった。

日吉神社について
 弘仁八年(八一七)最澄(伝教大師)は東国へ天台宗を広めるため、神戸の地に立ち寄った。このとき最澄は、神戸付辻を治めていた安八太夫安次の願いにより善学院を建て、また、近江(滋賀県)坂本の山王社をおうけして、日吉神社が建てられたといわれている。日吉神社というのは、次の七つのお宮全体をいうのである。
・日吉大宮(ひよしおおみや)
・日吉二の宮(ひよしにのみや)
・日吉宇佐の宮(ひよしうさのみや)
・日吉樹下の宮(ひよしじゅげのみや)
・日吉牛尾の宮(ひよしうしおのみや)
・日吉客人の宮(ひよしまろうどのみや)
・日吉三の宮(ひよしさんのみや)
 四月下旬土、日に行われる山王祭りに担がれる神輿(みこし)は七つのお宮の神様をお乗せするものである。
 日吉神社ができたころは、神と仏は一体であると説かれていたから、国の重要文化財の三重塔・十一面観世音菩薩像・地蔵菩薩像や、その他の仏教関係のものが神社に残っている。
  神戸町教育委員会

QRコードを読み取ると表示される公式HPのURLを貼ろう。

http://www.hiyoshi-jinjya.jp/

 

この看板と石柵の向こうには、なぜかコイがいた!

 

「日吉神社について」看板の向かいには、境内の絵地図があった。

 

本殿前の舞台だと思ったら、祭礼では神輿7基がここに集結するらしい。

「ごうど観光交流館 ひよしの里」で貰った冊子『ばらのまち神戸GODO』によると、この建物は「神輿殿」というそうだ。

 

神輿の写真と説明が貼られていた。

 

神輿の説明書きのほうは、あとで同じ内容のものが出てくるので、神輿が集結した状態の写真の接写だけ貼ろう。

 

本殿と接写末社。数が多かった。

 

ようやく三重塔。本殿の右側に建っていた。

 三重塔
昭和二十五年八月国重要文化財に指定
弘仁八年 伝教大師は当地巡錫 日吉神社を創建し 比叡の鎮守山王大権現の御分身を祀られた
この三重塔は大師の神仏混淆垂迹の思想に基づき 平安の昔神域に建立されたものである
現存の塔は永正年間斎藤利綱が再建し約七十年の後天正十三年(一五八五)稲葉一鉄が修造したものである
棟札は神護寺善学院に遺っている
塔は規模壮大 室町時代の豪華な建築様式の一典型である 幸いに戦国の兵火を免れ天正の修築 貞享の大修理など数次の補修を経て その偉容を今日に伝えている
塔の大きさ
初重方一〇・五メートル 軒高 四・七 メートル
二重方 一〇・ニ メートル 軒高 九・〇ニメートル
三重方 九・〇ニメートル 軒高 一三・五メートル
露盤下までの高さ
一七・七六 メートル
相輪頂上までの高さ 二四・六 メートル
塔の構造
三層塔婆毎層三間 組物三手先軒二重
層木初重勾欄は天井拭板屋根桧皮葺
相輪鉄製
 平成七年三月
  神戸町教育委員会

こういう説明を読むにつけ、神道と仏教をすっぱり分離するのは無理があると、しみじみ思う。

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参道を出たところ、一般道の先に建っているこの鳥居が目に入った。

 

この車止めと堀のようになっている部分が気になって、2021年5月15日付拙記事ではGoogleストリートビューまで貼ったのだった。

www.watto.nagoya

同日付記事には日吉神社まで距離があると書いてしまったが、車から下り立ってみると、ここまで歩くのは、ぜんぜん苦にならない距離だった。

 

祭礼の折には、この低くなった部分に水を溜め、神輿が渡るようだ。「琵琶湖を模している」とするブログもあった。

 

2枚上の写真の、鳥居の向こうに見える建物は「御旅所」というそうだ。

 

「御旅所」と刻まれた石柱の向こう側、建物側面の説明書き。

お旅所(お仮屋)
 日吉神社は平安時代のはじめ、最澄(伝教大師)が安八太夫安次の懇請に応じ、平野庄(神戸町一円)の守り神として近江ノ国・坂本の日吉大社の霊(みたま)を移し、お祀りしたのに始まると伝えられる。その後、長い歴史の興亡のなかに郷土の人びとのあつい信仰にささえられた日吉の祭りは、「神戸山王まつり」 (県重要無形民俗文化財) と言われ例年5月4日に行われてきた。「神戸山王まつり」には、伝統に生きる素朴な民衆による神人合一の神輿の「渡御」が3回行われる。
「朝渡御」は5月4日午前0時、本宮から若い衆に担がれた「神輿」が幾百本の松明の内容に 明かりに映えなが、「お旅所」に奉安される朝渡り、「火まつり」である。
 また午後0時、お旅所から左折して横町・上新町・下新町から鍛治屋町の通りに出て本町を通り「お旅所」に「渡御」する「昼渡御」、昼渡りである。しかし近年、担輿する人手不足から現在は行われていない。
 午後5時「王飯」の供奉・「力紙」の神事が行われて「神輿」がお旅所から本宮へ渡御する「還御」である。
 お旅所は堂垣外(どうかいと)と呼ばれる聖地にあり、本宮から渡御された七社(基)の神輿の仮の宿で「山王まつり」の生い立ちを物語る神戸の豊かな昔日の「ロマン」の息吹を託している。

振り仮名がないから読みづらいが、冊子『ばらのまち神戸GODO』によると「渡御」は「とぎょ」、「還御」は「かんぎょ」と読むそうだ。「御旅所」は「おたびしょ」である。

 

道路側7枚の説明書きを、左から順に。内容は「神輿殿」に貼ってあったものと同一だった。祭礼時には、これらのパネルが外され、神輿が格納されるのだと思う。

日吉三の宮神輿
朝渡御 還御
貞享4年(1687)の製作で県・町の重要有形民俗文化財に指定されている。祭神は鴨玉依姫神の荒魂。本体は四角形である。笠鉾には鳳凰の飛翔する姿が四方にあり、桝型の頂きには葱の花の形をした擬宝珠が乗る。鈴縄は紅ちりめんの巻き撚り。鈴は丸型で3こ、前の右がキリン、左が亀、後ろの右が上り竜、左が鳳凰の金物が打ち付けてある。渡御のときは7番目に担がれる。鍛治屋町に神輿蔵があり同町の氏子が管理し昭和町・川西の協力を得ている。

 

日吉客人の宮神輿
朝渡御 還御
貞享4年(1687)の製作で県・町の重要有形民俗文化財に指定されている。祭神は白山姫神。本体は四角形である。笠鉾には三千年目に一度花を開くとき、如来が世に出現すると伝えるめでたい優曇華(うどんげ)の花をあしらった華紋がある。前の柱には養老孝子・楠公桜井の子別れの図、後ろの柱は漢詩讚文の彫刻の金物。渡御のときは6番目に担がれる。下新町に神輿蔵があり下新町・福井の氏子が管理し下宮・更屋敷の協力を得ている。

 

日吉二の宮神輿
朝渡御 還御
貞享4年(1687) の製作で県・町の重要有形民俗文化財に指定されている。祭神は大山咋神。本体は四角形である。五・七の桐の華紋が笠鉾に浮き上って輝き、中国では鳳凰が桐の木に住むと言う大変めでたい縁起のよい取り合わせである。胴体の四つの柱の金物は、神武天皇東征の像と南朝菊地一族旗挙げの像が金・銀・銅・錫で浮き彫り。渡御のときは4番目に担がれる。三津屋町に神輿蔵があり三津屋町・末守・北一色の氏子が管理している。

 

日吉大宮神輿
朝渡御 還御
貞享4年(1687)の製作で県・町の重要有形民俗文化財に指定されている。祭神は大己貴神。本体は四角形である。笠鉾の高さは70センチで、見事な巻き雲と竜の透かし彫りの金具が四方に輝きを見せる。たるかけから掛けられた緋ちりめん、の巻き縄の鈴縄。主神の神輿で、きらびやかな姿は王座の貫禄を表す。渡御のときは3番目に担がれる。上新町に神輿蔵があり上新町・安次・丈六道・田村・本庄(揖斐郡大野町)の氏子が管理している。

 

日吉樹下の宮神輿
朝渡御 還御
貞享4年(1687)の製作で県・町の重要有形民俗文化財に指定されている。祭神は鴨玉依姫神。本体は四角形である。笠鉾の北斗七星を形どった七曜星の華紋は仏教の日輪・月輪などの七菩薩にあて、不老長寿と幸福を表している。柱の金物は、前部は岩に戯れる獅子と笹の葉および渓谷の飛沫模様の青銅の彫刻。鈴縄は紅白2本の、よりあわせである。渡御のときは2番目に担がれる。横町に神輿蔵があり同町の氏子が管理し西保・南方の協力を得ている。

 

日吉牛尾の宮神輿
朝渡御 還御
貞享4年(1687)の製作で県・町の重要有形民俗文化財に指定されている。祭神は大山咋神の荒魂。本体は八角形である。笠鉾は十六花弁の菊花の華紋が8つ、頂きに金色の擬宝珠が輝く。ちりめん2本よりの紅白の鈴縄は、前の担ぎ棒から、たるかけ、交差して更に後ろにかけ、担ぎ棒に連なる曲線美をみせる。鈴は八角形青銅の駅鈴がついている。渡御のときは1番目に担がれる。本町に神輿蔵があり同町の氏子が管理している。

 

日吉宇佐の宮神輿
朝渡御 還御
貞享4年(1687)の製作で県・町の重要有形民俗文化財に指定されている。祭神は満津姫神。本体は四角形である。三ッ葉葵の華紋が笠鉾に輝く。徳川の葵の紋が使われていることは珍しい。神戸村が尾張藩の所領で日吉神社が特別の処遇を受けていたと思われる。鈴は丸型、鈴縄は紅ちりめんの巻き撚り。棒鼻の金物は右が竜、左は虎の浮き彫りである。渡御のときは5番目に担がれる。宮町・井田の氏子が管理している。

 

長々と文字起こしをしてきたが、初見ながら神社境内にあった役物とつじつまの合う記述があったり(ほんの一例だが鳥居右奥の神輿蔵の中身が最後の説明パネルに対応するであるとか)今後ちょっとずつ深堀りするときの手がかりになりそうだったので。

神戸ばら公園があるかぎり、この町に足を運ぶ機会は必ずあるはず。

 

駐車場に引き返すときに撮った、道路の西側。唐崎神社という門標のある小さな祠、「高橋杏村邸跡」と書かれた説明書き、それに「栄徳碑」と刻された大きな石碑があった。

「なんだろうこれ?」と調べたい対象は、いろいろあるということで。