今次の参院選の結果は個人的には不本意なものだったが、いくつかのマスメディアの論調やSNSにおいての著名人、インフルエンサー、FFさんたちと意見が一致する局面が多かったことは救いだった。
すなわち…
差別は、まず第一義的に人を苦しめるから、人権侵害だから、やってはいけない
現代日本社会において、外国人が優遇されている事実はない (日米地位協定に基づく在日米軍関係者の扱いを除く
もし日本が外国人から見放されたら、我々の生活はよけいに苦しくなる
万一そうなったとき、差別の矛先は高齢者、障害者、女性、性的マイノリティーなど国内の別の少数者に向かいかねない (すでに向かっている部分もある
などである。
それらに、つけ加えるべきことがあった。私のX旧ツイッターのタイムラインに流れてきたので気づいた。これは拙過去記事に書いたことがなかった。うかつだった。
いくつかポストを貼らせていただきます。
「差別を許さない」は「私も差別してしまうことがある」ことは大前提で、それでも差別はあってはならないということを言っていかなければならない、ということなんです。差別に反対している人たちは、誰も「清廉潔白で私は一つも差別をしていないしこれからもしない」 https://t.co/wXzPDKmgrl
— 大椿ゆうこ事務所 🏳️🌈🏳️⚧️ (@ohtsubakijimsho) 2025年7月24日
と思ってる人はいないんじゃないかなと思います。だけど、だからこそマジョリティ性を複数持つ立場として、"声高に"叫ばなければならないと思っています。
— 大椿ゆうこ事務所 🏳️🌈🏳️⚧️ (@ohtsubakijimsho) 2025年7月24日
さらにいくつかつけ加えます。
「差別をするな」は偉そうにしているわけではなくて、いま差別を受けている人を守るために言うんです。
— Tomock (@To_mock) 2025年7月23日
自分の中の差別心にも向き合い続けながら。
だから自分に対しても言っている。
内と外に向けた言葉だと思います。わたしは。
私も自分自身の差別意識と常に向き合い闘っている。 https://t.co/Jm2aIhEanr
— マッコさん (@0807hatomugi) 2025年7月24日
ほんらい自分の言葉で言い直すべきであるが、これらのポストで言い尽されていて、つけ加えるべき言葉が今は見当たらない。ただ恥じ入るばかりである。
深い反省とともに、繰り返すことにする。「差別を許さない」は、自らの内なる差別と向き合うことでもある。
これだけでは分量的に物足りないので、脈略ないが実家の庭花のスマホ写真も貼ることにする。前回は、こちら。
ノウゼンカズラは盛りを過ぎ、選手交代のようにサルスベリが咲き始めた。
サルスベリの根本付近に、鮮やかに黄色い花も咲いていた。過去記事にはヤエザキオオハンゴンソウかなと書いたけど、今回改めてGoogleレンズに尋ねたら違うことを言われた。「ヘリアンサス(宿根ひまわり)ロドンゴールド」だったっけ、ややこしいことを言われた。正確なところは、わからない。
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