あいかわらず蔵書の「裁断機でバラす」→「ScanSnap で電子化」(いわゆる自炊)という処分を、ちびりちびりと進めている。
そのうちの一冊『大乗仏典〈12〉如来蔵系経典』(中公文庫) をバラした際、同書に収録されている短い経典をいくつか読み返した。
確かこの本は、仏教にハマり出した頃、有名経典を一通りは読んでおきたいと思って購入したんだった。同書には『勝鬘経』という経典が収録されている。聖徳太子が著したとされる『勝鬘経義疏』という解説書が存在することで有名である。この『勝鬘経』だけは、なんとか通読したはずだが、内容は全然憶えていない。
同書には5本の経典が収録されている。そのうち最初の2本『如来蔵経』と『不増不減経』は、ごく短いものである。それでバラしたついでにと、一気に読んでしまった。今回は『不増不減経』についてのみ記す。
『不増不減経』は、ラージャグリハ(王舎城)のグリドラクータ山(霊鷲山、耆闇堀山)の会座で、仏弟子シャーリプトラ(舎利弗)がブッダ(経典中の表記は「世尊」)に対して、次のような要旨の質問をしたことに始まる。
「六道輪廻を繰り返す衆生の総数は、増えたり減ったりすることがあるのでしょうか? それとも一定不変のものなのでしょうか?」
ブッダはシャーリプトラの質問を受け、まず次のような考えを「邪見」とする。
「(輪廻をつづけることによって)衆生界が満ちると見たり、(さとりによって)衆生界が減ると見たりすること」(上掲書P51)
本当はここでもうひと議論あるのだが、ざっくり省略して、前半を「増見」、後半を「減見」と呼称する。
減見は、さらに次のような三つの謝った見方を起こすとする。
1-1. 断見…(死によって)完全に滅尽してあとかたもなくなるとの見方
1-2. 滅見…涅槃はものの消滅であるとの見方
1-3. 無涅槃見…涅槃は究極的に非存在であり実体を離れている(畢竟空寂)との見方
(P53~54)
そして、この三種の見方にもとづいて、連鎖的に、以下にリストアップされるような邪見が生じるとする。
2-1. 無欲見
2-2. 究極的に涅槃という理想世界はないという見方(畢竟無涅槃見)
無欲見に基づいて、下記二つの邪見が生ずるとする。
2-1-1. 戒取見…他の教えの説く戒律や禁制を固執する見解
2-1-2. 不浄なものを浄と見る転倒した見解
(P54)
畢竟無涅槃見に基づいて、下記六つの邪見が生じるとする。
2-2-1. 世間有始見…世間の成立には始元があるという見方
2-2-2. 世間有終見…世間には終末があるという見方
2-2-3. 衆生幻化所作見…衆生は幻術や化作〔けさ〕によってつくられたものだという見方
2-2-4. 無苦無楽見…(人生に)苦も楽もないという見方
2-2-5. 無衆生事見…衆生のよりどころはないのだという見方
2-2-6. 無聖諦見…(苦、苦の因、苦の因の減、苦の因の減にいたる道という四つの、人生とその目標についての)聖なる真理(聖諦)はないという見方
(P54~55)
増見に基づいて、次の二つの邪見が生じるとする。
3-1. 涅槃は(無から)はじめて生ずるという見方
3-2.(涅槃は)因も縁もなくて突如として出現するという見方
(P55)
* * *
と、ブログにするためここまでまとめて、はたと思い当たった。
こうして本の内容を箇条書きにまとめるのは、「演習」と呼ばれる作業(の一種)だったのだ。
漫然と読んでいたのでは、どうしても頭に入らないものがある。
それを頭に流し込むためには、なんらかの「演習」を課すこと、すなわちどんな方法であれ、元の形を自分の手で変形することが有効な手段であることは、学校で習ったはずだったのだ。
それがあまりに自明であるゆえに「陳腐である」と誤解して、学校を出てからはつい忘れがちになる。それから単純に面倒だったり。何度かその重要性を再発見しては、そのたびに自分を叱咤していたはずなのだが。
さきに内容を全然憶えていないと書いた『勝鬘経』なども、そうやって読み返すべきかも知れない。
閑話休題。
* * *
ブッダは、これらの邪見は、ただ一つの根元に対する誤解から生じたものだと断ずる。
シャーリプトラは当然、そのただ一つの根源とは何か、その意義はたいへん深奥で、自分にはまだよくわからないと質問する。
それに対してブッダは、その深奥なる意義は、如来の知恵のみが認識でき、如来のみがはたらく領域としながらも、次のような四種類の言い換え、説明を行う。
4-1. この深奥なる意義というのは、「究極の真理(第一義諦)」のことであり
4-2. 究極の真理というのは、「衆生の本質(衆生界)」の同義語であり
4-3. 衆生の本質というのは、「如来蔵」の同義語であり
4-4. 如来蔵というのは、「如来の法身すなわち、真理の世界そのものとしての如来の身」の同義語である
(P58)
巻末の解説P435~によると如来蔵の蔵とは「胎」のことで、つまり平たく言えば「如来蔵」というのは「仏のタマゴ」という意味のようだが、この言い換えから受けるかわいらしい印象とはほど遠い、全宇宙と全宇宙の背後にある認識不能のなにものかを全て含む、壮大な概念のようである。
このただ一つの根源とされる如来蔵あるいは法身については、次のような特性を持つことが繰り返される。
5-1. あらゆる諸属性と不可分である(P58、61~62)
5-2. 過去の極限も未来の極限も持たない(P59、61~62)
5-3. 永続的で不変である(P59、61~62)
ただしこの如来蔵あるいは法身という概念を導入することによって、箇条書きにした数々の邪見が、どのようにして解決されるかは、同経典中に詳細な説明はない。
文庫本でわずか15ページ、原文はP48「凡例」によると “「大正大蔵経」でわずか二ページほどの小部の経典” とのことだから、いたしかたのないことである。
* * *
で、以下、本当に自分用のメモなんだけど、この『不増不減経』の構造が、カント哲学のそれにそっくりではないかという気がしたのだ。
カント哲学と言っても、いささか広うござんす。『純粋理性批判』に登場する「物自体」の理論を思い描いている。
「物自体」の理論に関しては、かつて 「ホムンクルスの誤謬」の解決に応用できるんじゃないか と考えたり、ホーキングの「虚時間」の理論に似てるんじゃないか と思いついたりして、常々もっと本腰を入れて勉強せねばと思っている。つまりぜんぜん理解が足りていないと自覚しているということだが、ざっくり表にまとめると、次のような類似が見つからないかと…
不増不減経 | カント哲学 | |
解決すべき問題 | 増見・減見にまつわる邪見 | 4つのアンチノミー |
仮定する存在 | 如来蔵/法身 | 物自体 |
仮定する存在の特徴 | 如来のみ認識可能 | 認識不能 |
繰返しになるが『不増不減経』はごくごく短いものなので、「何かに似ている」と牽強付会しようと思ったら、何にでも似せられるようにも思う。
例えば、経典の著者はブッダに述べさせた「邪見」のうちで、「死による滅尽(断見)」をもっとも否定したがってるように推察(邪推?)される。してみるとプラトンの『パイドン』やハイデガーの『存在と時間』のような「死」を直接的に扱った哲学書こそ比較の対象とすべきかも知れない(そんな力量は私にはない
もっと言うと、仏典はなにより仏典に一番似ているということで、有名な『般若心経』と「不増不減」「苦集滅道」「究竟涅槃」など多くの共通する用語や類似する用語が出てくることから調査を始めるべきかも知れない。
それを言い出したら、真っ先に同書に収録されている他の経典をきちんと読めということですよねすみません(誰に謝る?
今回はあくまで「こんなのがあった」という自分用のメモなので、結論も何もなくこれでおしまいにする。
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